信夫教会創立当時根本としと言う女性が居た。
15歳で嫁いで夫が学者であったためふさわしい妻となろうと13年間勉学のため別居した。
その間大学が夏休みなどには夫のもとに戻った。
そして近所の人達に新しいファッションや東京で流行っているお菓子の作り方・宗教などを伝えた。
それはそのまま新しい情報発信の場となり自然発生的に教会が成立した。
当時福島に有った強力な伝道者によるディサイプル教会とはこの点が違っている。
なお根本としが信仰を得たのは麻布の教会だと言われている。
夫君の根本莞爾(ねもと-かんじ)は当時福島師範で学者として教えていた。
当時の学問は方言依存性が高かった。
例えば「し」と「す」の違いから浜にある植物を牧野富太郎は「はまなし」呼んだが東北の学者は「はまなす」と言って譲らない。
根本莞爾も牧野富太郎にライバル意識を持っていたのは想像に難くない。
夫君の植物学的功績は福島県花となった。
写真の花をネモトシャクナゲと言う。