記事一覧

佐藤敬先生との思い出

ファイル 5-1.jpg

天上の人々
   佐藤敬牧師(2014.3.6)
               宗形透志

”敬さんの奥様が亡くなられたこと、ご遺骨を関西の地に葬られるために来日すること、でも今回は福島には来れないこと”そんな連絡があって3週間位後の3月初め”敬さんが亡くなられた”といずれも65年も前からの教友から知らせがあった。1950年(昭25)私達は高校生で信夫教会での青年会活動、聖歌隊活動等活発な教会生活を過ごしていた。その中に少し先輩の佐藤敬さんがおられた。経済専門学校(現福大経済学部)の学生で明晰な頭脳とにこやかな笑顔、緻密な計画で私達をリードして下さった。伊藤忠利牧師の下、時代背景もあって教会はかってないほど満たされていた。そんな中敬さんは献身の志を立て東京神学大学へ進まれ牧師になる道を歩み始められた。
私の家族は1945年(昭和20)戦争末期の8月、福島市街から西へ13Kmほど離れた荒井村に移住し、それがきっかけとなって伊藤牧師による聖書研究会がうまれ、その後荒井教会の誕生となった(昭和30)。敬さんの家は教会のすぐ近く、曾根田町の旧飯坂街道沿いにあって商店(まるます)という雑穀、肥餌料を手広く販売する大きな店舗兼住宅で、私は高校三年生の時通学の時間、体力の損失で進学準備の妨げになると考えた父によって商店の二階の一室をお借りしての下宿生活をした。その時敬さんは神大の学生で帰省する度にお部屋に伺ったり一緒に近くの銭湯に行ったりと親しいお付き合いをさせて戴いた。帰省数が多かったのは後に夫人となる平友子姉の存在があったのかもしれない。受験地が東京であったため早朝に上野駅に着いた私を出迎えてくださったり、試験終了後には三鷹の東神大の寮や近くの公園を案内して下さったり、とてもお世話になった。後に荒井教会初代担任牧師佐藤敬先生になろうとは考えもしないお互いの若い時を過ごした。東神大を卒業された敬先生は新婚の友子夫人と共に横浜上原教会の二ツ橋伝道所に着任された。上原教会は伊藤忠利牧師が牧しておられた。大変なご苦労のなか教会へと格上げされ、更に幼稚園を開設し愛隣幼稚園と名付け懸命の伝道者生活を友子夫人と共になされた。1956年頃(昭和31)先生は胃を三分の二切除される病気をされ、その後の静養のため福島に戻ってこられた。一方荒井教会は宣教百年特別記念「ラクアー伝道」のセンターの一つに指定され、五年間、夏の二ヶ月、米国より牧師が派遣され、その出身教会の支えがあって、最終目的を会堂建築とする集中伝道が行なわれた。1955年(昭和30)からのことである。集会所として一軒のお宅をお借りし礼拝諸集会が持たれた。親教会信夫教会の牧師が責任牧師としてお支え下さった。当初は宮島牧師、1958年(昭和33)から小林喜成牧師がその任に当たって下さった。そんな中1956年(昭31)十月、荒井教会最初の定住牧師としてお迎えしたのが信夫教会唯一の献身者佐藤敬牧師だった。病後静養中の先生は友子夫人と共に借家の小さな部屋での生活、礼拝、諸集会、信徒宅訪問等労を惜しまず活躍された。米国教会からの援助金千ドルで荒井地区中心に360坪の土地を購入、1957年(昭32)には20坪ほどの小さな牧師館が建設され、小さな部屋での集会が持てるよなった。先生は更にこの牧師館を用いて幼稚園開設を成し、前任地二ツ橋教会幼稚園と同じ愛隣幼稚園と命名し、以来五十余年この地に定着している。その間私には1972年(昭32)の結婚、同じ年の10月、父の交通事故での急死、いずれも信夫教会をお借りし佐藤先生が司式をして下さった。更に翌年10月、家の消失、その翌年には脱サラをして農業自営等激変の時を過ごしたが、その折々に佐藤牧師の支えと助言は心強く大きな感謝であった。1960年(昭35)米教会の更なる援助があり会堂建築が決定されたが、資金不足は明らかだった。この時佐藤先生の経済知識が発揮され、詳細な返済計画が認められ金融機関からの融資を受けることが出来た。7月、遂に会堂建設が成った。この会堂での礼拝、幼児教育の充実などは佐藤牧師のお姿と共に忘れることができない。1962年7月藤牧師に突然米国留学の話が出、コプト語(古代エジプト語)の研究で年間という事だったが友子夫人と二人の幼児、先生の母上との事で不安一杯の中お送りした。米国の先生の生活は図り知れないが、その後シカゴの日本人教会デボン教会に招かれたのを機に 族も渡米した。以来40年余り時折帰国される度にお訪ね下さって交わりの時を過ごしましたが、お付き合い65年、人知を超えて神様の示される道は
ただ受け入れるにしても嗚呼!!である。